ジコチューという言葉の弊害について考えてみた(前編)

広島三越では、ホワイトデーフェア開催中だそうな。

そんなこと考える暇があったら、もうちょっと仕事のこととかお待たせしているデザインのこととか考えたらいいのではないでしょうか、といった意見はすでに上に通してありますので省きます、さて。
ジコチュー、よく聞く言葉ですよね。私も以前のブログのタイトルは「manbo日々の自己中なつぶやき」でしたから、でも実は、それ以前は「manbo日々のつぶやき」だったんですよ。
なぜ変わったかというと、仕事の先輩から「manboさんってジコチューだよね」とキレ気味に言われたので、しかしながらそれはもはや「お前のかーさんでべそ」くらいの勢いで論点がずれていた発言だったので、もう考えるのめんどくさくなってしまい、それブログのタイトルにしよう、って思ったんですよね。

モンブラン進化系爆走中。

というようなこともありまして、ジコチューという言葉にはわりと馴染みがあったのです。個人的に。
しかし。
しみじみ考えてみると、自己中って、自己中心的って言葉の略ですよね。自己を中心に考える、って、主体的・自責的という、誠に大事な姿勢だったりしますよね。人のせいばっかりにして他責的なやつは成長せん。
では、世の中に蔓延るジコチューは、そのような人のことを指すかといえばそうではないのである。
言語とは、このようにこじらせる。

節約:せせこましい
信じる:思い込む
クラシック:古い
ふくよか:デブ
心がけ:お節介
リサイクル:使い回し

そう言っちゃったら元も子もないというようなことにも感じるが、実はそっちの方が的を得ている時もあり。何事も自分主体で考え直す必要があるのが社会なのだ。そしてCMなのだ。

仕事で広告作るので、言い回し、っていつも考えてるんだけど、ジコチューは、闇がふかい。
身近な人間をジコチューと認定してしまうことで、関わる多くの人が傷つき、人生をこじらせているように思う。(言われた私は傷つかなかったが、言った方は少なからず傷ついていたのではないかと思うのだ、この場を借りて、すみません)

平素私たちが乱用しているジコチューというものの指す意味は、「自分勝手でわがままで周りを傷つける」というようなことだと思う。
韓国人の知人などがたまに「自分のことしかわからない人」というのも、それと同じことなんだろう。
けど、自分のことをわかっている人ってそう多くはない上に、しっかり自分のことをわかっている人は、そんなに嫌な人でもないと思う。ということで、時間がなくなってきたので次回に続く。

ではこの名曲は、ジコチューなのか?そんな話ではないのじゃ。

投稿者: manbosblog

広島の県北、北広島町でカサコソ制作作業をしつつ、インドネシアのコーヒー、紅茶、塩の輸入をしてます。時々、産地視察と探検で日本を離れております。以前のブログは→https://manboblog.exblog.jp/ (株)ライフデザインマンボ 代表取締役

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