
またもや、ギフトの季節がやってきて、パッケージやら在庫チェックや送り状の準備に追われているサボナーズカフェです。大変だけど、ギフトを作るのは非常に楽しい。
さて、ちょっと前まではTPP反対!という立て看板を持った行列や、テキストをありとあらゆる場所で拝見したが、時代は流れてそんなことを言う人もテキストもなくなった。
まあ、そりゃそうだって話なんだけど。

東京に集まって抗議デモをしていたり、それこそ家族総出で雨の中でも歩いてた人たちの気持ちは安らいだのだろうか、いまは、こたつにみかんで幸せに暮らしているのだろうか、と、トランプさんを見るたびに、思う。

それにしたって抗議デモをしていた全国の皆さんは、非常に輝いていた。
平素、省エネモードで生きている私の目には、少なくとも、まぶしく映った。
そんなデモ行進を眺めてる時ってのは、だいたい単独仕事旅の合間で、大抵、遅刻とかしてて、基本、予定はグダグダで「はいはい、またこの展開ね」とかなんとか思いながら、公園やカフェでぼんやり眺めていたものだった。
だからなのか、「長崎支部~我々は…!」とかメガホンで叫んでいる全国の皆さんのエネルギーに、あやかりたい思いがあったのであろう。

当時、私はいろんな角度でTPPになったらどうなんだろうかと自分なりに調べたり博識な先輩方にお話を伺ったりしていたけど、まあ、時代というのは流れるものだなあくらいにしか思ってなくて、というかいまもそうなんだけど本当に自分の半径5mくらいのことで精一杯で。

しかし、何であれ、大概の人はエネルギーをぶつけながら生きて行くものなんだと思う。どんな形であれ、エネルギーをぶつけて、また生きるエネルギーが生まれる。そんな人が、たくさんいる。それに対して、なんでとかどうしてとか、そうゆうのはヤボなんだろう。
結局、人それぞれ、生きる力になるものが違うなあって真摯に思う。
私みたいな自分の半径5m圏内でエネルギーを燃やしてる人もいれば、地球の裏側の貧困問題や宇宙の廃棄物のことなんかにエネルギーをぶつけて生きてる人もたくさんいる。基本、生産性とか、道徳性とかそんなものはないのだから、あらゆるフェチや、猟奇的な何かにぶつける人もいる。いわゆる多様性の極み。

人類全部を一つの体だと考えたら、一見、激しくマイナスに見える要素もある。でもそれによって生まれる素晴らしさもある。これが多様性の引き出す最高のパフォーマンスなんだろうし、そのおかげで、ギリギリバランスが取れてるんだろう。

最近、Aiによって個体ごとに最適な職業を判断される時代が来る、という話を聞いたけど、それはそれでとても合理的で、すんごい生産力になるんだろうなあって思う。ただ、エネルギーが向く方向って、適正じゃないことの方が多い気がする、友人知人の少ない私の周りですらそうだしさ。
人それぞれにエネルギーを向ける場所が違うということが、多様性に繋がってバランスをとってるとしたら、適正ってものの必要性ってどのくらいあるんだろうか。

去年からmanbo家では、中原中也が流行っていて、実はあんまり知らなかったんだけど、図書館でも借りるけど何冊か書籍買ったりしてつまみ食いしてるうちにじわじわ好きになっちゃって。
中原中也も太宰治も夏目漱石も樋口一葉も、名だたる文豪、芸術家においてはその何倍も。その人生の不器用さにはめっちゃ泣けるけど、それゆえに、その作品が後世に渡り人類に与える影響は計り知れない。ピカソのような圧倒的な完璧さを持った人の影響力はまた別としても、大久保利通だって誰だって、私たち庶民よりもすんごい不器用で、だからこそ、心が激しく動かされるんです。

その経済効果もさることながら、ものすんごいたくさんの人が、天才たちの不器用な生き様や、そこから生まれる作品に、生きる力をもらったんだろうか。そこから生まれる生産性は、計り知れない。それこそが、人類の生み出した宝。だからまあ、人類の宝は、適正じゃなかったから生まれたんじゃないかな。
ってことは「どうせなら好きなことをしたら?」という投げかけは、自分だけでなく人類や、地球にとっても、最も最適な言葉のような気がする。

「知的好奇心」という言葉が乱用されてる昨今だけど「知的」という部分の概念は非常に曖昧だし、今日は知的でも明日はそうじゃなくなる可能性も多々あるわけで。
なので!
ままあることだとは思いますが、価値観違いすぎてなんて言っていいかわからない相談を受けたら「どうせなら好きなことをしたら?」って言って差し上げるのが、創世記から始まった人類の叡智…ということにしておきましょう。